2009/11/24

デフレ脱却の為にはデフレ脱却が必要だ

以前に読んだ小飼弾の仕組み何とかな本に、デフレ脱却の方法論について書かれていたのを考えていた。

要約すると、「2割の人が頑張れば全体の需要が満たされる程、生産性が上がった社会において、残り8割を生かすにはどうしたらいいか。この解が見つかれば過当競争によるデフレは脱却できる」という内容だったはず。
これに対する解答の一つは、2割の人が余暇に投資することだろう。それで8割の内の幾分かは生きていける。その幾分かが余暇にも投資することで、残りの人達も生きていけるだろう。2割の人は理想的には、余暇利用で更に生産性を上げる。

更に、最初の2割も購入できる人の増大=需要の増大という恩恵を得る。

問題はデフレ下で余暇に投資することは合理的に見えないって事だ。つまりまずはデフレを脱却せんといかん。

2009/11/23

第二次農奴制と資本主義

ブローデルの『物質文明・経済・資本主義』を読んでいる。

その代わりに領主たちは、農民たちを閉じられた経済単位――時としてひじょうに広大なものであったが――に組み入れることに成功した。ボヘミアのツェルニー伯爵家、ポーランドのラドジヴィル家、ツァルトリスキ家、ぶどう酒と家畜の商人でもあったハンガリーの大貴族たちのことを考えてみよ。これらの経済単位は自足している。農民はもはや年の市に行くことはない。おまけにこれらの市も大変小規模なものになってしまっている。彼がそこへたまたまやってくるようなことがあれば、何らかの賦課租を支払うための、あるいは、これも領主の持物である旅籠へビールやリキュール一杯を飲みにいくためのわずかな金を彼がかき集めるに足りるだけのささやかな取引のためであった。

しかし、結論的に言ってこの経済単位は自給自足的ではない。なぜならそれは丈夫で開いているからである。昔と同じように農奴と土地の所有者である領主は、穀物、木材、家畜、後にはサフランあるいは煙草を遠くの顧客の需要にあわせて生産する。(p338)

もちろん私はこの議論に異を唱えようとするのではない。しかしながら私には、第二次農奴制は、東ヨーロッパの状況に自らの利益、そしてその一部分にとっては存在理由すらを見いだす商業資本主義の反面像であるように思えるのである。大地主は資本家ではないが、彼はアムステルダムの資本主義に奉仕しており、あるいはその上、その手先、そしてその協力者である。彼はシステムに加わっているのである。

という辺りが、ウォーラーステインの世界システム論と重なる。「第二次農奴制と資本主義が対立概念ではなく、東ヨーロッパが資本主義的世界経済に組み込まれた結果、第二次農奴制が成立した。言い換えると、オランダやイギリスの市民の労働条件が良くなる過程と東ヨーロッパでの労働条件が悪化する過程は一つの現象の異なる側面である。」という主張である。

ウォーラーステインは俺の周囲ではあまりに恣意的な資本主義の定義(まぁ、資本主義の定義が恣意的でない人はいないが)もあって嫌われている論者であるが、この認識が大きく間違っているとは思わない。現在トヨタ・キヤノン・シャープ(要するに日本の工場)で起きている(だろう)事が同じラインで動いていると考えるからだ。労働条件の悪化と業務の単純化、目的はもちろん利潤の最大化だ。こうして生産された産品を誰が消費しているのか分からんけどな。

2009/11/22

物質文明・経済・資本主義

しばらく停滞していた『物質文明・経済・資本主義』の2巻を読み始めた。2巻の副題は「交換のはたらき」。取り扱う題材は市、定期市、大市などの市場である。

問題の所在。

経済学では経済活動を「消費」と「生産」の2ステップで考えるが、より重要なステップとして「交換」を含めるべきである。

たしかにその通りだと思う。需要ー供給モデルに喩えると、需要曲線=消費、供給曲線=生産、平面全部=交換、となるんだろう。