2012/01/17

失われたn十年を不幸にしない、質実剛健なバブルの過ごし方

このエントリは徹頭徹尾アルビン・トフラー語法で記述する。アルビン・トフラーは『第三の波』の序文で「俺っち未来について記述するからさぁ、大半の文末に「~になる可能性がある」とか「~かもしれない」とかつけないといかんわけよ。正確な表現を期した場合にはね。でも、そんなの怠くてやってらんないから、読者様が適宜脳内で補ってね」という主張をしていたのだ。文章はもっともっと堅実なそれだってけれども。
このエントリは、いつもに増して与太なので「(嘘)」を適宜保管していただきたい。

考えたきっかけは下のリンク先である。

http://blogs.itmedia.co.jp/akemi/2012/01/post-4.html

ここでは最近のヨーロッパ・アメリカの控えめに表現しても酷い様を顧みて、「失われたn十年」の日本は失敗のモデルケースでないと目されているようだ。記事でも言及されている通り、現在のヨーロッパ・アメリカの様からすれば、日本の一〇年前から変わらない安定のダメさ加減はマシに見えるのかもしれない。
しかし、経済政策の方法論に落とし込むには、日本で実施された「ゼロ成長ターゲット」は他の国に対しては適用しづらかろう。というか、発展している事になっている中華人民共和国においてすら、ゼロ成長ターゲットをしていては破綻を免れまい。

もしヨーロッパ・アメリカが今後「失われる十年」を行き、それが日本のそれと比して酷い有様だったとして、だ。それは経済政策に起因するのだろうか?不況の初期条件-バブル絶頂期の条件の違いが失われる十年の命運を分ける可能性はないだろうか?その線で未来に、「失われたn十年」から学ばれるビジネス書のタイトルを考えてみた。

「 失われたn十年を不幸にしない、質実剛健なバブルの過ごし方」
「禅=バブル」

あぁ、弟に上のブログの事を話したら、「日本の自殺者は年間に3万人…」と言われたよ。自殺が失業率の低下に寄与している可能性はあるよね。どこのマルサス世界だよ!とは思うけれども。